魔法使いより

実を言うと、物心ついた頃から書くということに呪われていたように思う。
自由帳一冊を1日で書き潰した日々には、母に怒られた。
作文の授業ではものの数分で書き終えることに誇りを持った。

かといって、書くという才能はついに誰にも知られる由もなく死のうとしている。
これはまごう事なき呪いである。
だから私は、

―せめて私が心より愛する人たちへ
書くとはこれほどまでに素敵な魔法なのだと見せたい。
「時間」

いつからだろうか。
胸ポケットに入れたはずの”時間”が無い。
どうやら失くしたらしい。
「いや、そんなはずは。」と記憶を辿ってみると、ちゃんと予定を後回しにして怠惰に過ごした記憶がある。
どうやらだらだらと浪費してしまったらしい。

そんな時間に対してふと思うことがあった。
長く生きていると、ある日「時間の定義が変わった」というニュースが目に触れた。
彼の存在はあまりに酸素のようにそこにあったから考えたこともなかったが、酸素という当たり前と時間という当たり前には似て非なる違いがあった。
そう、時間とは概念であって、物質ではない。
「日時計」というものがある。
小学生の頃の授業に出てきた気もするし、どこかの駅前のオブジェで見たことがある気もする。
即ち、太陽が作る影が時間を指し示すのである。
つまり、地球が自転する一周を一日としている。
正確には、過去していたというのが正しい。
非常に合理的で素晴らしい定義だと思うと同時に、「そうだそうだ、人が人の営みのために設けたものだった」という当たり前で気にも留めなかった事実に正直驚いた。

だって我々は、CPUのクロック周期はいくつだの、計測器のサンプリング周期はいくつだの、アプリケーションの更新周期はいくつだの、それだけではなく心拍数ですら時間という物差しで常々考えている。
何か閃きを得ようと歩き走り休み、その度に「これはどうだ。速いぞいいぞ。遅いぞダメだ。」なんて思ったりもしてきた。
だから今私は、こんなにも「時間」を忘れたい。
この世の法則が時間という一軸によって上手く要約されて、綺麗に解釈されてきたことへの感謝はしているのだ。
だからこそ、今一度「物質」とやらがどんな次元でその特性を表現しているのか、このサングラスを外して見てみたいのだ。

「いつからだろうか。 物差しに使っていたはずの”時間”が無い。」 その世界で人は、何を経て生涯を閉じるのだろうか。